野球の最近のブログ記事

大野(元広島)、山本昌(中日)、和田(ソフトバンク)、藤井(日本ハ
ム)。4人の共通点は表記のとおり。
もうひとつ、なぜか左投手なのである。これはカメラの角度で判別しやす
いからなのか、右投手で彼らと同類にあたると思われる投手はまだ確認し
ていない。
要は変則モーションで、極端に腰を折り曲げて投げる投手がこの類に挙げ
られる。この「球の出どころがわかりにくい」という要素は、じつは球速
とおなじくらい重要な要素だとわたしは考えている。そう考えると、40
歳になっても140キロ台をバンバン投げていた大野なんかもっと現役を
続けてもよかったんじゃないかと思う。

では、この「球の出どころがわかりにくい」フォームというのが彼らの成
功の原因なのだろうか?
興味深い考察がある。『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(佐野
真著・講談社現代新書)によると、和田のピッチングの

・驚異的なストレートの切れ

それに加えて、

・投球腕の隠れ
・リリースポイントがふつうのピッチャーよりかなり前

という要素が、彼の球を球速以上に打ちづらくしていると分析している。
さらに「驚異的なストレートの切れ」のもとになっているのは、「ボール
の回転数の大きさ」だという。
つまり和田にとって「球の出どころがわかりにくい」というのは付加的要
素でしかないという結論だ。

正直ストレートに切れのある投手といったら江川とか、現役なら藤川なん
かのほうが個人的にはイメージが強いのだが、おそらくテレビで観るのと
実際に対戦しているバッターとはだいぶ感覚がちがうのだろう。

奇跡の予感漂う大甲子園、快音を残して放たれたライナーはそれをかき消
すように三塁手のグラブに収まった。
このとき三塁ベース上の伊藤の目にひざから崩れ落ちた若林の姿ははどう
映っただろう?

新潟県の山形県境にちかい山間の村・関川。村にただひとつしかない中学
でバッテリーを組み、県大会で準優勝。ふたりの夢は大きく膨らんだ。

「いっしょに甲子園へ行こう。」

念願は叶った。今春のセンバツに出場。しかし、優勝した清峰に完封負け。
しかしこの敗戦をムダにはしなかった。日本文理は雄々しく立ち直り、春
夏連続出場を果たした。
そして新潟県勢としては春夏通じて初という決勝戦に駒を進め、一時は7
点差とされながら、9回二死からの怒涛の反撃で1点差までせまった。
敗れたとはいえ、決して"野球留学校"でもない地方の高校がこれだけの完
成度の高いチームに仕上がったことは多くのおなじような条件下の高校の
励みになるだろう。

PLがメッシュ生地?

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いまから30年くらい前から高校野球でも夏の試合のユニフォームはメッシュ
生地が主流となっていたが、PLはかたくなにノーマルな生地のユニフォーム
を着ていた。
...のはずだったのだが、今年の夏彼らのユニフォームは流行の縦に筋の入
ったメッシュ生地のものだった。

いったいいつから?

所蔵していたDVDで調べると松坂と対戦した平成10年(第80回)のときは
もうメッシュになっている。気がつかなかった。
ひとつ手がかりになるのは、中村監督がこの年のセンバツを最後に退いてい
ることだ。
春夏連覇した昭和62年(第69回)のときはまだメッシュではない。ただ、この
間11年がある。DVDにはこれ以上の資料がない。

そうなるとネットだ。PL、中村監督、メッシュ、いろいろ組み合わせてみたが答
えにつながるものは見つからなかった。

わたしのかすかな記憶では中村監督がメッシュ生地を嫌っていたという話を
聞いたことがあるのだが...。

まぁ、ときにはわからないことが頭の片隅にあってもいいだろう。ネット時代に
なってもわからないことはわからないままでいい。

中京のエースといえば

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10年ほど前、広島ファンの同僚に連れられて神宮球場へナイターを観に
いった。
わたしはほとんどプロ野球に興味がなく、しかもヤクルトにも広島にも特別
な思い入れがなかったので少々かったるい思いで試合を観ていた。

ところがヤクルト側の守備で、ある投手がマウンドに登ったとき、わたしの
目はそのひとに釘付けになった。
その投手とは野中徹博。かつて甲子園で池田・水野と緊迫した投手戦を
繰り広げた末敗れ去った愛知・中京高校のエースだった男である。
彼はその年のドラフト1位で当時の阪急に入団し将来を期待されたが、故
障で思うような結果を残せず野手転向ののち自由契約の身に。その後は
ひと知れず一般の社会人としてふつうの生活をおくっていた。

誰もが"中京の野中"は終わったと思った。
いや、ほとんどのひとがすでに彼の存在を忘れかけていた。

そんなとき、台湾から意外な情報が入ってきた。
あの野中が台湾で大活躍をしているという。もちろん投手として。
台湾という異国の地で自信をつけた彼は、翌年入団テストから這い上がり、
憧れの中日のユニフォームに袖を通す。
貴重な中継ぎ投手として活躍したが、3年目はわずか3試合の登板に終わ
り再び自由契約を言い渡される。

しかし"中京の野中"はまだ終わらなかった。

今度はヤクルトの入団テストを突破し、翌年みごと開幕一軍の座を勝ち取
る。
"野村再生工場"のもと、野中は再び輝きを取り戻した。
中継ぎとしてチームの日本一にも貢献し、自己最多の44試合に登板、ま
た念願のプロ初勝利も挙げた。

わたしが彼の姿を観たのはおそらくこの年だと思う。外野スタンドからだっ
たが、この雄姿をしっかり目に焼き付けておこうとわたしは食い入るように
マウンド上の彼の姿を観ていた。

結局その翌年は思うような結果を残せず彼は引退した。現在は都内でサ
ラリーマンとして第二の人生を送っている。
しかし野球とは離れられず、いまはマスターリーグで活躍しているという。

そう、"中京の野中"に終わりはない。

元中京高校エース 野中の野球人生

高校生時代の彼はなんだかやけにオッサン臭く観えたが、いまの彼の姿に
むかしの『巨漢』のイメージはまったくない。むしろいまのほうが男前に見え
る。
気が張っているときのほうがいい顔をしている場合が多いと思うのだが、逆
の場合もあるのだなと思った。

伝統のユニホーム

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高校時代、中京(現・中京大中京)の襟付きユニフォームに憧れているチ
ームメイトはけっこう多かった。
しかし現在名門と呼ばれる野球部もユニフォームのデザインを変えてい
るところがいくつかある。
例えば中京大中京もそうだが、興南、広陵、三重などもそう。
かくいううちの高校もいちおう県内では名門と呼ばれているが、しょっちゅ
うデザインを変えている。
まぁ、うちの場合は伝統とかあまり気にしない雰囲気がわたしの在学当時
からあったが。
しかし中京といえば『襟付きユニフォーム』、これは高校野球ファンの常識
であった。いったいだれがこの伝統を破る権限を持っていたのか、またOB
の激しい反対はなかったのか関心のあるところではある。

しかし一方で久しぶりの甲子園でも変わっていない学校などを見ると正直
オジサンはうれしい。箕島、県岐阜商、熊本工、西条、龍谷大平安、作新
学院、高知、東北、PL学園、天理、県内では上尾、所沢商、熊谷商、川越
工など。

やっぱり伝統のユニホームは魅力がある。わたしの高校が甲子園に出た
ときのユニフォームはむかしの全国大会準優勝したころのものとはちがう
デザインになっていると思うが、わたしは幸運にも最後に甲子園に出たと
きとおなじデザインのユニフォームを着ることができた。これは自分のなか
ではひそかな自慢だ。

ある意味中京のリニューアルは掟破りだが、結局は時代を創っていくのは
いまの選手たちなのだ。彼らが新たな中京大中京の伝統を創っていくので
あろう。
ただ、選手の意見と無関係に『鶴の一声』で伝統のデザインを変えられて
しまっては、それに憧れて入部した選手にはたまったもんじゃないが。

青春のひととき

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いつからか高校野球でも野手がマウンド上に集まることに回数制限が設け
られるようになった。
基本的には延長戦を除いて1試合に3回までということのようだ。
その制限の理由は「試合の進行をスムーズにするため」と規則には書かれ
ている。
わたしは正直この制限には賛成しかねる。
これまでこのような『タイム』が無用なものに感じたことはないからである。
人生全体のなかで高校野球に捧げられる時間などほんのわずかでしかな
い。
正直高校野球レベルでは野手がマウンドに集まり伝令が来たところで大し
て戦術的な話などできないであろう。しかし、このわずかな時間にこれまで
いっしょに練習し、ともに戦ってきた仲間とかわすひとことふたことは人生に
おいて非常に意味のあるものだと思う。

たとえ試合に影響はなくても、人生には大きな意味を持つ時間なのだ。

できればこの条項は撤廃してほしいが、せめて5回くらいまでは許してあげ
てほしいと思う。

それぞれの夏

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蕨の3年生・浅野裕太投手は背番号10。投手としては二番手の存在であ
った。
もともと蕨は進学校で、野球部も特別な存在ではない。相手は春の県大会
準優勝の埼玉栄。浅野くんは緊張で登板直前に嘔吐してしまった。
しかも浅野くんは相手のエラーで転がり込んだ1点を守る立場でマウンドに
登ることになった。先頭打者に四球を与え、こころが折れそうになる。
ところがバックが助けてくれた。バッテリーを組む捕手の金杉くんが走者を刺
したのだ。
味方がいることを支えに浅野くんは曲がりの大きいカーブを低めに集め、凡
打の山を気づいていく。
5回にスクイズで1点を取られ同点に追いつかれたが、埼玉栄打線はまだ
浅野くんのカーブに苦しんでいた。毎回四球を出すものの決定打が奪えな
い。
そしてむかえた9回裏、内野の連携ミスでとうとう2点目を奪われ、蕨はサヨ
ナラ負けした。しかし、浅野くんは強豪埼玉栄打線を5安打に抑え込んだ。

その姿にわたしは若き日の自分をダブらせていた。ほとんどすべてが変化
球というスタイルは左右のちがいはあれ同じだったし、自分のカーブはたと
え強豪校相手でも通用すると信じていた。

その埼玉栄は決勝へ進んだ。浅野くんはおそらく埼玉栄を応援しながら受験
勉強をはじめたところであろう。

埼玉栄-蕨(平成21年夏・埼玉大会3回戦)

1000000001
埼玉栄000010001X2

オールスターゲームになるとやたらと『力と力の勝負』を美化する輩がいる。
それなら『技と技の勝負』があったっていいじゃないか。
例えば、東京ヤクルトの石川雅規投手と東北楽天の草野大輔選手の対決な
んてわたしならワクワクするが、石川投手は今回選ばれていない。

それに剛球投手が直球で勝負したがるのはその球が自分にとっていちばん
自信があるからなのだから、例えば埼玉西武の岸なんかはカーブ一辺倒で
強打者にぶち当たってほしいくらいだ。

とにかく技巧派投手の直球勝負だけは観ていられないので絶対やめてほしい。

やっぱり85年夏の決勝・PL学園対宇部商がいちばん想い出に残ってい
ます。
この試合のことはこれまで何度も書いていますのであらためてくわしくは
書きませんが、選手の背景も含めて何度観てもいい試合だなぁと思いま
す。

じつはこの試合前はそれまであまりにもPLが強かったので、ヘロヘロ状
態で決勝へ上がってきた宇部商がいい勝負できるわけないとあまり観る
気がしなかったのを覚えています。
それがいざ試合がはじまってみたら本当に素晴らしいゲームで、あのとき
観るのを放棄しなくて本当によかったと思います。

ある意味わたしの人生を変えた一戦だったのですから。

悲運の男

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先日北海道日本ハムの多田野数人投手が9回2アウトからノーヒット・ノ
ーランを逃した。
この「あと1人」で偉業を逃した投手は過去に23例あるらしい。意外に多
いという印象がする。やはりあと1人までいってしまうと気が緩んでしまう
ものなのだろうか?

さらにそんな経験を2度もしている投手が2人もいるというから驚きだ。
ひとりは70年代後半から80年代にかけて活躍したロッテのサブマリン
仁科時成投手。もうひとりはいまも現役の埼玉西武の西口文也投手。し
かも西口投手は延長戦に入るまでパーフェクトピッチングを続け、延長
10回にヒットを打たれたことがある。

なんという『悲運の男』だろう。

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