ティー・ブレイク: 2009年3月アーカイブ

やっぱり別れたか。

誰もがそう思った陣内・藤原夫妻の離婚。陣内の浮気グセが原因とも
言われているが、原因は別にどうでもいい。みごと期待に応えてくれ
たという感じだ。個人的には藤原になんの魅力も感じないので別にか
わいそうとも思わないし、陣内はある意味おいしいわけだし、まぁ、いい
んじゃないの。

それよりも徳井・夏川ペアの行方が心配だ。徳井クンは陣内以上にプ
レイボーイのイメージがあるだけに。夏川さんはマジメそうだし年齢が
年齢だけに徳井クンには結婚を前提に真剣にお付き合いしてもらいた
い。

夏川さんを不幸にしたら俺が許さん!

さまぁ~ずの三村は中学生時代不良が怖くて3年間の記憶がないと言
っていた。わたしも1年、2年のときの想い出はたくさんあるが、自分の
通っていた中学で主だったヤンキーと同じクラスになった3年のときは
いい想い出がひとつもない。もっともわたしは怖かったというよりはどち
らかというと奴らがウザくてしょうがなかったからだが。
三村に限らず、そういう思いを抱いている真面目な生徒は多いのでは
ないだろうか?

当時は尾崎豊が全盛のころだったが、彼の言う社会とか大人の支配と
いうのが理解できなかった。確かにどうしようもない暴力教師とかもいた
が、わたしにとってこの時期最大のテーマはこの不良たちとどう対峙す
べきかということだった。当時の最大の敵は彼らであったのである。
そのため何度か彼らと喧嘩になることがあった。しかし奴らは必ず勝つ
まで何度も因縁をふっかけてくるだろうと思うと、手は出せなかった。結
局何発か殴られて終わり。ある意味喧嘩にもなっていなかったかもしれ
ない。

たぶん彼らは別に一般の生徒に迷惑をかけているつもりはないのだろう。
しかし彼らの影響でどれだけの生徒のこころが萎縮したことか。
彼らにはそういう生徒全員の失われた記憶の代償に値する罰が本来与
えられなければならないのだが、現実には彼らは少年法やら何やらで手
厚く守られている。やりきれない事実である。

もし中3のメンバーで同窓会をやると言う話が来ても、わたしは行かない
だろう。今度奴らを見たらなにをするか自分でもわからないからだ。それ
はわたしの失われた1年のためでもあり、高2のとき自殺した友人の失わ
れた人生を取り返すための行動でもある。

この言わずと知れたボクシング漫画の大巨編が『週刊現代』でいま復
刻掲載されている。ぜひ若いひとたちにも読んでもらって感想を聞きた
いものである。

『あしたのジョー』は昭和42年から48年にかけて『週刊少年マガジン』
で連載された。わたしが生まれる前後のことである。しかしアニメの再
放送があったこともあって、わたしは小学生のとき小遣いを遣って少し
ずつ単行本をそろえていった。わたしのなかに形成された価値観の根
幹の部分はこの漫画の影響を受けたと言ってもいいだろう。

この漫画、いちおうボクシング漫画ではあるがボクシングはあくまでも
表現の手段でしかないと思う。おそらく原作の高森朝雄(梶原一騎)よ
りも作画のちばてつやの意図の影響のほうが大きいと思うが、この漫
画で読者に問いかけたことは「生きるとは何か」ということだと思う。
矢吹丈の価値観はたぶん歪んでいる。常人のものではないと思う。こ
の一瞬を生きることにあれほどの魂を込めることなどふつうできない。
ひとの幸せにはいろいろなかたちがある。ホセのように家族を持ち、明
るい家庭を築くこともそのひとつだろう。ジョーにとって幸せとはちがう
かもしれないが、リングの上で情熱を燃やし続け、そしてまっ白に燃え
尽きるのも彼の望んだ人生である。わたしはこの真っ正直な一秒一秒
を力いっぱい生きる人生のほうがいいと思っている。あくまでもわたしの
望む人生としてだ。万人に勧めているわけではない。そのさきになにが
あろうともわたしは恐れない。それがわたしの"青春"なのだ。

もうひとつ言っておきたいのがジョーと白木葉子の関係だ。これこそ"究
極の愛のかたち"じゃないかと思う。ただ単にプラトニックというだけでは
なく、そこには本当に相手の望むことと心中しようとする気持ちがある。
そこへ至るまでの長い過程が非常に繊細にかつリアルに表現されてお
り、ある意味『あしたのジョー』は壮大な恋愛漫画とさえ踏まえることが
できる。
最後の最後にお互いの本当の気持ちに気づいた。しかもそれは果てし
なく深い愛であった。ホセとの試合前の控え室のやり取り、崩壊寸前の
ジョーを励ます葉子、血のしたたるグローブを葉子に渡すジョー、言葉で
しか表現できないのがもどかしい。

『あしたのジョー』と言えば、「立て! 立つんだ! ジョー!」しか思い浮
かばない方、最初からでなくてもいいのでぜひとも最後の部分(単行本
の20巻にあたる部分)だけでも読んでいただきたい。

先日購入した液晶ディスプレイに『ドット抜け』と言われる箇所が存在
した。
正確に言うと、画面上の1ドット大の部分が常時点灯している状態に
なっているのだ。わたしは当然これは『初期不良』だと思い、ショップに
連絡した。するとうちでは対応できないのでメーカーのカスタマーセン
ターに聞いてくれという返事だった。
カスタマーセンターに電話すると意外な返答が返ってきた。曰く液晶
ディスプレイは製造段階でかなりの確率でこの現象が起こることがあ
るので、『故障』ではない。よって製品の交換等には応じられないとの
ことだった。これは電子情報技術産業協会(JEITA)のガイドラインに
も則っているという。

法的に見ると、問題となるのはこの製品にドット抜けという不完全な部
分があることに売主の責任(故意・過失)があることを買主が証明しな
ければならない。しかし、現状ではメーカーが故障と認めない限り法的
に追及するのは難しいと思う。
ただ、これまでノートパソコンを含め数個の液晶を含む製品を購入した
がドット抜けに遭ったのはこれが初めてだ。精密機械の製造技術の進
歩は日進月歩だ。現在の技術においても故障と呼べないほどドット抜け
は頻出するものなのだろうか?

法律論から離れて考えると、ドット抜けのある製品とない製品が同一の
値段で売られている。どちらにあたるかは製品を実際に使用してみない
とわからない。しかもドット抜けがあっても初期不良のある製品として交
換を求めることはできない。これは客観的に非合理的である。
それならむしろ完全な製品であることを確認して中古品を買うほうが賢
い買い物である。

しかしこのメーカー側の主張は本当に法的合理性があるのだろうか?
消費者にいちじるしく不利に感じざるを得ないのだが。

『ドラゴンボール』は世代を超えて通用するトピックである。
フリーザとの戦いが終わってからはちょっと強引に連載を続けさせられ
た感があるが、その人気は国内だけにとどまらず海外でも広く認知され
ている。

そのフリーザにクリリンが粉々にされたのを目の当たりにした悟空は超
サイヤ人に変身する。ふだんは自分のことを「オラ」と言っていた悟空が
「オレ」と言うようになる。人格もまったく別人のようになる。
悟飯たちを地球に帰したい悟空が怒りをこらえて言ったひとことがタイト
ルのセリフである。

なんてカッコいい! カッコよすぎる!
これをなんとか日常生活において使ってみたいものである。無理か。

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