ティー・ブレイク: 2007年7月アーカイブ

『爆笑オンエアバトル』を観ていると、ほかのNHK番組と
ちがう点に気づかないだろうか?
商品名や民放の番組名がそのまま放送されていることで
ある。
またかなり侮蔑的な表現もカットされずに残している場合
がある。
たとえば2000年5月21日のおぎやはぎのネタのなかで、
「娼婦の息子が! このオクラホマのホモ野郎が!」
というフレーズがそのまま流れたことがある。
芸人にとってこれらの表現が使えるか否かは死活問題で
あるという判断からこれを許可されるようスタッフが懸命に
努力したと聞く。

なにげなく観ている番組が、NHKという制約のために実は
ものすごい陰の努力がなされているということがあるのだ。

わたしは高校で本格的な野球を引退してからも、草野球で
プレーは続けていた。むしろ引退してからのほうがマウンド
に登ることは多かったと思う。
わたしは現役時代こころの弱さを克服するため、あえて攻撃
的な精神状態を持ってマウンドへ登った。そうしなければ投
球イップス(注)になってしまうからである。
それによって精神的な弱さは克服できた。
ところが草野球でも同じように振舞っていたら、エラーをした
ひとに怒っているように受け取られていることがわかった。
もちろんわたしにそんな気はなく、いままでどおり常に厳しい
顔で投球に専念していただけだったのだ。
逆に言えば草野球でもそうしなければならないほど精神的に
もろいのだ。
まわりがそう思っているのがわかるようになってからは、気持
ちを切り替えることができるようになった。エラーした選手には
意識して笑顔で接するようにした。

まわりの誤解はいちおう解けたが、「マウンドに登るとひとが
変わる」という評判は変わらなかった。

高校のときの部活のランニングコースは3種類あった。
5キロコース、7.5キロコース、12.5キロコースである。
ピッチャーは7.5キロを日課として走っていたと思うがほかの
ひとのことは知らない。
12.5キロは夏場の合宿一週間のうち3回のノルマがあった
はずだがほかのひとのことは知らない。
夏場は日本全国でも指折りの猛暑となる土地なので、これは
かなりハードだったが、それでも持久力が強いのでわたしの
場合はまだ楽なほうだったろう。
3年になって考えてみた。走ることってピッチングにそんなに大
事なのか? そんな時間があれば筋トレでもしてたほうがいい
んじゃないか? そんなふうに考えて、日課のランニングを5キ
ロにしてしまった。
いまそのことの過ちに気づいて後悔している。
たくさん走ることが肉体的に意味がなくても精神的には大きな
意味があるのではないか? 実際毎日7.5キロ走るという苦難
を与えたためにもともとピッチャーなんてできるメンタルを持ち合
わせていなかった自分がマウンド上で受けるプレッシャーに耐
えうる精神的な強さを得ることができたのだ、といまは考える。
母校を甲子園へ導いた偉大なる先輩は当時からそのような考え
で自宅から学校まで、雨の日もひとり黙々と走りこんだという。
わたしの永遠のヒーロー、京都商業の井口さんも同じようなこと
を言っていた。
古くさいと思われるかもしれないが“こころを鍛える”って実はと
ても難しくてそして大事なことなんだと思う。それは『禅』の世界
に近いのかもしれない。

もしあのころに戻れるならひたすら走ってみたい。投げ込みや筋
トレは運動生理学的に限界があるかもしれないが、走りすぎで体
を壊すことはないだろうから。

わたしの中学生時代の同級生の友人について。

彼とはちがう小学校だったが町の行事でいっしょになり
大の仲良しになった。
中学に入ってふたりとも野球部に入った。
わたしは投手志望、彼は捕手志望だったので、将来は
絶対バッテリーを組もうなと固い約束をしたのだった。
ところが彼はいつのまにか層の薄い外野に転向し、2年
後ライトのレギュラーになってしまった。
わたしはもちろん投手志望をあきらめるはずはなくエース
にもなれなかった。
もうひとつ、わたしは中学生当時からラグビー好きで2年
次の成人の日のとき(当時は1月15日)は日本選手権の
決勝があって、あの松尾雄治の引退試合だったのに、
友達で高崎へ遊びに行こうなんて話になって、わたしは
後ろ髪を引かれる想いで外出した。
そんなラグビー無関心のが高校でラグビー部に入ったの
です。それもけっこう名門の。
松尾雄治の胴上げを遊びたいからと言って観なかったおま
えがなんでラグビーやねん! ふざけんな!
しかもはまあまあ成績もよく顔もベビーフェイスでよくモテた。
身長も10cmくらいわたしより高かった。
しかも“天然キャラ”(わたしもわりとそうだったが)でひとを
よくイライラさせた。

いまはなにをやってるんだろ?

市民農園で大麻を栽培していた人物が、市民の通報
で御用になったらしい。
なんという大胆な犯行。大麻のまわりにはひまわりを
植えてごまかそうとしたらしいが、大麻のほうが育ち
が早く目立ってしまったようだ。野菜を作らないのもお
かしいし、もっとうまくごまかす方法はあったんじゃない
かなとも思ってしまう。
うちの近くにも市民農園はあるが、こんなところに大麻
が植えられてたらと思うと他人事ではない気がする。

わたしには“北の大地”への憧れがあって、過去に東北
を一回、北海道を三回旅行に行きました。
ひとり旅が多かったのですが、これらの旅行でいちばん
想い出に残っているのはある無人駅でした。
網走から釧網本線に乗って釧路へ向かう途中、釧路湿
原駅で降りて展望台へ行きました。
あいにくその日は霧が濃く、視界はまったくないに等しか
ったのですが、駅へ戻っても次の列車までの時間は長
く、退屈しのぎのためにもと来た路線を逆行しようと思い
ました。
あくまでも次の列車とすれちがわないようにと計算して降
りた駅が『五十石』という無人駅でした。
駅といってもほとんどなにもなく、しばらく歩いていくとレス
トランがありました。
するとどこからともなく犬がやってきたのです。
一旅行者に対してこの犬はせいいっぱいなついてきたの
です。
駅へ戻ってもしばらく犬と遊んでいました。待合室のポス
ターには『BOOMER標茶町へ来たる!』の文字が!
当時はボキャブラ全盛時です。たいへんだな、芸人の仕事
って。
いつのまにか犬はどこかへいってしまいました。代わって
ペンションのオーナーらしき方が現れました。お客さんを迎
えに来たとのことです。ひとの良さが伝わってくるオーナー
さんでした。

しばらくすると釧路行きの列車がやってきて、オーナーさん
とお客さんと思われるカップルとお別れしてその列車に乗っ
ていきました。

そのあと釧路で食べたラーメンがめちゃめちゃ旨かった!
別に混雑もしてないふつうのラーメン屋でしたが、わたしの
なかでは歴代一位だと思います。

あのあと一回北海道の北西部を旅行した後、遠方の旅行は
していません。出張とかはあるのですが。

ということでひとり旅は楽しいぞという話でした。
まとまったかな?

わたしの中学生時代の同級生がある芸能人の奥さまを
しています。
本人も芸人でときどきテレビに出ています。
ただ中学生当時はまるで接点がなく、中学を卒業してか
ら頭角を現したようです。
彼女には同級生のいとこがいるらしく、その子はわたしの
ことをよく知っていたようです。
わたしが浪人生のとき、すでに彼女は芸能界デビューし
ており、松村(バウバウ)といっしょにラジオにでてたり、
ものまね番組にでてたりその歳ですでにけっこう活躍して
いました。
わたしもけっこう同級生のあいだでは有名なほうだったの
ですが、ずいぶん差をつけられてしまいました。
妹曰く、わたしは表舞台ではなく裏方向きなんだそうです。
それは自分でもわかっているんだけど、ピッチャーをしたが
るのとおなじで、責任を背負い込むプレッシャーがある意
味快感だったりするんです。
でも彼女のように女性でピン芸人はかなりたいへんだと思
います。夫の支えが大きいんだろうなぁ。

かつて鉄道はいま以上に重要な交通手段でした。
いまは変わり果てた姿でわずかな面影を残すのみと
なったたくさんの鉄道廃線跡。どういうわけか無性に
興味をそそられたのでした。

同タイトルはJTBから計10巻にわたって刊行された
書籍で、10巻にもおよぶシリーズということからも世
間の関心の高さがうかがえます。
わたしが最初に興味を持ったのは、いまのJR八高線
丹荘駅から延びていた上武鉄道という路線。
八高線に乗っていると意外なところにプラットフォーム
があることに驚いたものです。
のちにそれが上武鉄道のものだったと知るわけです。
つぎに興味をもったのは熊谷駅から妻沼方面に延び
ていた東武熊谷線(通称妻沼線)。これは部活のラン
ニングコースと廃線跡がクロスしていたので非常に身
近に感じていました。高校在学時は廃線跡はほとん
ど整備されていなくて荒れ放題でしたが、いまはどう
なっているのか気になります。
最後に国分寺駅と府中競馬場を結んでいた下河原線。
部分的に遊歩道が整備されていてその面影は残って
いました。
以前いた勤め先の職員のひとりがこの路線の思い出を
語ってくれたのを覚えています。

ネットで検索してもこの手の探索ものは多くて関心の高
さがうかがえます。やはり廃線跡にはなにかロマンを感
じるひとが多いんでしょうなぁ。

7、8年前にアコギを買った。
当時2万くらいしただろうか。
井の頭公演でストリートミュージシャンの演奏を聴いて
いたら、無性に自分でもやりたくなって楽器屋に飛び込
んだ。
でも練習のしかたがわからなくて、とりあえずコードを押
さえる練習をしていた。
ぜんぜんできなかった。
Fが押さえられるひとの指はどうなっとるんじゃ。

いまそのギターは押し入れに眠っている。
久しぶりにやってみようか。

例の『ダンボール入り肉まん』にはたまげましたな。
なにしろ4:6でダンボールの比率のほうが多いの
だから。
おまけに劇物のカセイソーダにダンボールを浸して
わかりにくくしたというからすごい。
ミートホープが優良企業にみえます。
行政も汚職続きだし、こんなことをやっていて、北京
五輪はホント大丈夫なんでしょうか?

大学職員をやっていたころ、ある新任の教員が採用に際して
必要な書類をもってきた。
そのなかに本人の住民票があったのだが、その先生は男だ
ったのに住民票には『女』と記してあった。
先生にこれは直したほうがいいですよと言うと、数日後新たな
住民票を先生は持ってきた。
そこには『平成○年×月△日職権訂正』とあり、性別は『男』に
直してあった。
先生にはなんの落ち度もないのに、転出するまでこの“汚れた”
住民票と付き合わなければならないわけである。
これなどは内部的な書類にそのいきさつを記す程度でいいと
思うのだが、おそらくそういうことは法規上許されないのだろう。

思い返してみるとわたしは公務員としてまったくの異端児だっ
たと思う。旅費支給計算のためにプログラムを作ったり、年末
調整に関する手作りのガイド書類を作ったり、寄宿料の取り立
てに寮まで行ったり、まわりを見渡してもこんなに努力をしてい
た職員はいなかった。

もっとも民間会社でも業務改善の提案をしたりしていたが(それ
がもとでクビになったこともあった)。これは決して悪いことでは
ないと思う。
機会があればこれからも続けていきたいと思う。

大学生時代、ある講義で幻滅したことがあった。
確か『現代政治論』って講義名だったと思うが、教授が
『羽田孜』を漢字で書けないのである。
教授は黒板に『波田』と書いて、「ちがったかな?」
などと言ってさらっと右から左へ受け流したのでした。

教授、『波田』ってそれは『波田陽区』です!

まぁ、この時点で大学のレベルがわかってしまいますが、
必ずしも教える側と教わる側のレベルは一致しないとだけ
言っておきます。

それはおいといて、仮にも『現代政治論』の講義で当時
旬の政治家・羽田孜が書けないとは、
ちょっと恥ずかしいではないですかい?
この教授の試験問題を解くのかと思うと複雑な気分に
なりました。
やっぱり書くことを忘れちゃダメなんですね。

みんながみんなそうではないと思うが、タクシー運転手の
車は概して運転が荒い気がする。
路地裏の細い道を猛スピードで走り抜けたり、すごい勢い
で加速したり。
むかしいた大学に運転士さんがいたが、そのひとの運転は
ホントみごとだった。他の乗車客にまったく恐怖感を与えず
余裕のある運転をしていた。

タクシードライバーの方もやはり安全第一でお願いします。

参議院選挙比例区にはさまざまなミニ政党が立候補してきますが、
なかにはとんでもない勘違いの主張をしてくる政党がでてきます。
本来、政見放送は投票の参考にするために観るものですが、
ある種のエンターテイメントとして観ることもできます。
気になる名前の政党があったら政見放送を観てください。
きっと楽しめることでしょう。

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