次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
これは『吾輩は猫である』の最後の部分である。「死んでこの太平
を得る。太平は死ななければ得られぬ。」この部分にはひきつけら
れた。
“太平”ってなんだろう? なんとなく言いたいことは解かる。
“無の境地”っていったら近いのかな。田宮二郎の遺書で「死は全て
を解決するものではないけれど、無に等しくするものです。」とある
これじゃないかな。
前世とか来世とか信じないにんげんにとって、死は“無”になること
だと思う。
だから、わたしは死ぬのは怖くない。死ぬまでが怖いのだ。

にんげんの死を最後に踏みとどませるのは、死への恐怖や
親しいひとへの愛情なんかではない。
だから本当に死を望むものに、「自殺したら来世で苦しむんだよ。」とか
「死んだら家族が悲しむだろう。」という説得は無駄だ。
最後に死をとどまらせているのは、肉体的な苦しみや痛みなのだ。
ただ、自殺を望むという感情は根本的に病的なものだ。
死ぬしかない、と思ってることの前提は、意外と根が浅かったりする。
その根本が崩れたら死ぬなんてばかばかしくなる。
学校や会社が原因なら辞めちまえばいい。
ほかに生きる道などいくらでもある。
自殺念慮は一時的な病的感情だ。
その病的状況から逃れれば自然と病的感情もなくなる。
逃げよう、この際徹底的に。
これまでの喜びも悲しみも忘れ去るまで。
僕も死ぬことは恐くない。
死ぬまでのたった数秒、コンマ何秒、これが恐い。
だから死ねない。
自殺できる人は、ある意味、勇気のある人だと思います。
その勇気が欲しい。
本当に欲しい。